柏原英一(1914~2009)写真帳 第1冊

タイトル
柏原英一(1914~2009)写真帳 第1冊
資源識別子/Identifier
32c89fc6-92ee-a88e-f2d0-14746748f233
作成者/Creator
柏原英一
出版年
[昭和13年9月.昭和15年4月]
形態的記述
1冊
内容記述/Description
本写真帳は、漢口に駐留していた部隊の報道部員であった柏原英一氏(1914年生~2009年没)が整理し保管していたものです。ご遺族の元に残されていたものを、上嶋茂太氏(共同通信)を通じて東洋文庫現代中国研究資料室が寄贈を受け、撮影・整理して公開しています。
目次
r1, 捨去るには余りに惜しく昭和十八年以来筐底深く蔵すること十五年艱苦血涙に満ちた屯営並びに第一線の生活と悲喜織なせる軍報道部の生活の想出をここに綴る幸にして第一線の辛苦は報道部の楽天地に変じたものの家恋しの念は一貫して五年の間終始切々として胸奥を流れたことは終生忘れ得ない処であると共に漢口の生活と風景は十五年後の今も尚眼底に髣髴として懐しい過ぎし日を偲ぶと共に生還今日を得ある身を思うとき遂いに懐しの祖国に還ることも得ず中支を始め全戦域に亘り戦野の露と消えた幾多の護国の英霊に対し謹んで深き哀悼の意を捧ぐ, 5, -
r2, 13年9月3日 第一回召集 篠山歩七〇に応召篠山歩兵第七十聯隊旗, 6, -
r3, 万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 営庭に満開の桜咲くという植込みも当時は炎熱の下, 8, -
r4, 一期検閲前入隊直後浪高し京大(南支、広野部隊へ)福中 浜極原(中支へ) 北沢(北満へ)福中希生柴田(共に中支へ)11月27日北満へ, 9, -
r5, 11月27日北満へ植木鎮雄北沢荒木源也北満へ 11月27日萩野西小斌, 10, -
r6, 日下部伍長 中支東野藤郎, 11, -
r7, 北沢北満転出を数日の後に東野二等兵(共に中支へ)宜昌作戦に於て戦病死 神戸商高卒14年2月 長岡野兵舎にて, 12, -
r8, 木津長十郎福井正一南本鶴雄加納 尼中一年下沢野衛生兵 甲南高校助手12月28日 北満へ 入隊以来転属を見送ること七回13年12月9日 入隊したこれら初年兵は(沢野を除く), 13, -
r9, 花房二等兵(共に中支へ)13年12月25日 初年兵北満出発を前に第四班記念撮影, 14, -
r10, 編成替第三班となり13年12月29日北満よりの帰還兵九名を迎う 14年2月頃か14年3月 桜満開の春も待たず新設第三十四師団編制 動員令下る, 15, -
r11, 14年3月20日 第三十四師団歩兵第二百十六聯隊第二大隊第五中隊 吉沢中隊戦時編制, 16, -
r12, 昭和十四年四月三日大阪港日満突堤より大日丸に乗船出征の途に上る, 17, -
r13, 4月16日 漢口上陸 一個師団の行軍を撮影出来ることはめったにないとか(戴家山附近――大分後にこの地名を知った)でカメラが動いていた麻城に入ってからこれが火野葦平の土と兵隊の映画化ということを前部隊の古雑誌で知った報道部転属後この撮影は報道部の連中もいたことを知り、又この映画を見た, 18, -
r14, 前線での唯一枚の写真麻城にて 鉄条網構築14年5月塩見軍佐14年4月19日 湖北省大別山系の麻城に入り、大隊本部に変り数次の討伐戦闘に参加8月24日 移駐漢陽に入る 10月25日 揚子江を下り九江を経て11月半南昌最前線へ14年9月28日漢陽にて 漢陽警備隊本部漢陽にて 米沢一等兵と, 19, -
r15, 十四年十一月七日、日本では肌寒い十一月というが中支は蝿と汗の夏まだ盛んな気候永修河で水浴をしたとき各部隊から外国語修得者を上級部隊へ差出すべき命が下達され申出たそのまま部隊は南下をつづけて南昌に入り最前線の空気は刻々と来るべき苛烈な戦闘を思わせもはや永修河畔のことなど忘れて了つていた十一月もすぎ前線各中隊の夜戦がつづく 十二月の南昌前線の夜は寒く あやめも判らぬ闇の中に歩哨に立った十二月十六日の夜、群る野犬を銃剣で制しつつ大隊本部■珍宝(?)の裏に廻ったときねむげな声で通信兵が「ナニ?■■、■■?」と応答するのをきいて何事かと思ったがはからずも数日後十二月十九日郵便電報検閲要員として転属命令が下りた一転、最前線の生活は再び漢口へ戻ることとなった今も時々 人間の運命を思わせるすぎし日のことである14年12月­29忘れもしない 十四年十二月十九日 まづ聯隊本部迄の道を 真赤な太陽が山に沈む その光をうけて 長い長い影を おとして歩き始めたあのときの姿 顔も手も真赤に染りつつ 独りでトラックで、汽車で漢口迄戻っていったときのこと 南昌単独■舎の窓にふとみた星がキラキラと 空にかがやいていたあの夜のこと 十二月廿七日 報道部へ着す 山東哲貫がいたのにおどろく 彼の推薦がちからあったらし かくて十七年十月迄 二年十个月の漢口の生活が 始った  思えばこの転属で無事帰還できたのかも知れない, 20, -
r16, 火野葦平「土と兵隊」の第一行目にこの中の人々の名が出ている昭和十五年一月一日柏原 田中 室田 小早川 小薗 梅田 吉野田村 押田 瀬川 二武 斉藤 鈴木 松尾 浜崎 柴藤 山本 森本 坂田岡田 山口中尉 黒木中尉 杉原少佐 寺田中佐 兼地中尉 伊藤 写真班 浅野千代彦写15年1月22日 雪の日の朝特二区天主堂前にて 山本上等兵と 浅野写, 21, -
r17, 報道部漢口支部長 寺田中佐 8月31日南方へ転出雪、霏々としてフランス租界に舞う, 24, -
r18, 陸戦隊歩哨交代の雪景色外は雪舞うも 姑娘踊る室内は暖い, 25, -
r19, 15年1月2日 吉野上等兵室田画伯上等兵 第二小学校一年上と知る岩永輜重上等兵(橋本欣五郎大佐の甥)ヘボ絵描鈴木一等兵画伯, 26, -
r20, オペレータ 失名氏 広野?碼頭にて 同上氏, 27, -
r21, 15年2月 チビ公を抱いて 報道部玄関前で冬のひざしをうけて 山本上等兵 鈴木一等兵画伯, 28, -
r22, 国府軍投降の李大佐 民衆時報(謀略新聞)に勤務残雪の碼頭吉野上等兵, 29, -
r23, 15年2月11日(紀元節)東和劇場に 土と兵隊(映画)をみる。一年前の行軍の苦しさを目のあたりに映るを見15年2月14日江口隆哉 宮操子一門松田兵站にて慰問舞踊, 30, -
r24, 目をつむれば今も尚その前にいるような気さえする。旧報道部の前景鉄扉の蔭にわずかに写っている報道陣カメラマンの活躍, 31, -
r25, 浅野属 第二代の愛犬, 33, -
r26, 浅野写真班員室田宣伝班員, 34, -
r27, 松尾 室田上等兵小早川室田松尾岩永黒木中尉, 35, -
r28, 漢口碼頭 碇泊司令部 檜垣部隊前桟橋 斜右手が武昌武昌 黄鶴楼(跡) 中央石壁に蒋介石の抗日文と絵残りありし, 37, -
r29, ヒットラー盛んなりし日西尾総軍司令官と楮民誼, 38, -
r30, 成都空襲の我爆撃機に挑戦の敵戦闘機(事変写真集に所載)待機中の司偵, 39, -
r31, 暁の整備, 40, -
r32, 砲艦隊、長江を圧して水上機隊, 41, -
r33, 鉄道部隊の蔭の苦労, 42, -
r34, 15年3月6日 松田兵站本部屋上にて 大陸新報記者 植木一等兵と写すこの頃浅野写真班員 また子犬をひらってきた, 43, -
r35, 15年3月10日 岡村部隊長、園部部隊長と交代漢口競馬場にて岡村中将閲兵式武漢警備部隊の分列(白腕章), 44, -
r36, 軍直轄戦車部隊の分列キングに載った写真新第十一軍呂集団司令官 園部中将, 45, -
r37, 武漢民衆大会15年3月20日, 46, -
r38, 15年3月22日歩哨の顔の記憶「西住戦車長伝」撮影のため松竹上原謙来漢 報道部より案内, 48, -
r39, 15年3月24日 陸軍病院 川北部隊運動会, 49, -
r40, 15年4月3日 漢口神社祭典の日 日租漢口神社前にて, 52, -
r41, 十五年夏、漢口基地より出撃する重慶爆撃の援護戦闘機の航空距離は随伴不可能を唄った。戦爆連合の空襲のため戦闘機基地が痛望された。指向されたその候補地宜昌が攻撃目標と定められた。時、事変四年目十五年四月、中支第十一軍の宜昌攻略作戦は春江南の野に今を盛る弥生半ば直隷全部隊を動員して隠密なる秘匿の下に開始されたのである, 53, -
r42, 峨々たる山畳を飛翔する重爆湖北、四川の山は遥かに涯もなくつづく, 54, -
r43, 雲海を縫うて重爆隊は殺倒する地上は戦車隊が怒濤の進撃, 55, -
r44, 工兵隊の架線工事擬装下の爆弾, 56, -
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所有者/owner
東洋文庫
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作成日/Date Created
2022/06/23
更新日/Date Modified
2022/11/17