柏原英一(1914~2009)写真帳 第7冊

タイトル
柏原英一(1914~2009)写真帳 第7冊
資源識別子/Identifier
724152ee-1198-8217-2935-93a9cf8e38ac
作成者/Creator
柏原英一
出版年
[昭和17年5月–17年12月]
形態的記述
1冊
内容記述/Description
本写真帳は、漢口に駐留していた部隊の報道部員であった柏原英一氏(1914年生~2009年没)が整理し保管していたものです。ご遺族の元に残されていたものを、上嶋茂太氏(共同通信)を通じて東洋文庫現代中国研究資料室が寄贈を受け、撮影・整理して公開しています。
目次
r1, 昭和17年5月9日 19420509桃鎮よりの船上にて ヂリヂリと焦つける夏の日の下、十二時写 水はなし蔭体なし 暑いことでした  左手は往路の負傷のホータイ篠田軍曹と炎熱の船上でダベりつ漢水をノロノロと、くそあつい!!それでものどかな風景もあった。, 5
r2, 漸く夕べの風が吹いて 漢陽も近づいた ヤレヤレ松尾節雄, 6
r3, 昭和17年5月20日 19420520浙贛作戦の幕は切って落とされた 十一軍(呂集団)、十三軍(登集団)相呼応して, 7
r4, 昭和17年5月20日 19420527海軍記念日 中支艦隊補導部(漢口武官府)提供武昌を望みつゝ 砲艇は行く, 9
r5, 昭和17年5月30日 19420530 浙贛作戦無線報道班の無線機を携行 南昌に出張す。 南昌大橋畔にて, 10
r6, 折から展開中の浙贛作戦に協力しつゝあつた武昌飛行場の爆撃機隊へ取材のため記者団を案内して武昌に移る昭和17年6月14日 19420614, 13
r7, 昭和17年8月17日 19410817      赤痢のえん罪を負うて漢口第一陸軍病院に入院 9/10迄所謂白衣の生活 惜しいことにその写真は一枚もとつていない 9/11~9/21迄武漢大学の名誉訓練所に入る, 14
r8, 武昌名誉訓練所にてこの写真の裏には昭和拾七年七月拾七日どこの部隊の兵だったか三人の中の誰が署名したのか定かでない(恐らくは山本か)山辺武男堀口兵次郎山本仙太郎と記してある訓練所運動場にて内藤一等兵報道班屋上から天主堂を距て長江を望む17年四たびの夏の漢口, 15
r9, 昭和17年8月17日 19410817      赤痢のえん罪を負うて漢口第一陸軍病院に入院 9/10迄所謂白衣の生活 惜しいことにその写真は一枚もとつていない 9/11~9/21迄武漢大学の名誉訓練所に入る, 16
r10, 訓練所運動場にて内藤一等兵17年四たびの夏の漢口報道班屋上から天主堂を距て長江を望む, 17
r11, 昭和17年10月 19421000記者クラブ裏にて 失名氏と恐らく漢口に於ることが濟後の写真であったものと思われる昭和十四年十二月末 報道部に転属の命をうけて着漢後茲に二个年と十月。足かけ五年に亘る召集を今終らうとする 凱旋のための原隊復帰令も下りた秋漸く濃く離漢の日も近かった頃報道部、班の生活も終る 最古参勤務を思うとき 三年間のことが走馬燈のように胸中を去来する報道部、班の三年 幾度びか転属、凱旋、原隊復帰の人々を送って春三たび夏三たび 昭和十七年十月五日の夕は盃をあげてわが身が送別される時を迎えた感懐, 18
r12, 十七年十月十日、三年に亘る漢口を出帆、独りはるかなる南昌の原隊へ出発十月十二日南昌 十七日迄師団本部にといゞまる 写真上は師団報道班の兵十月二十日仁首街の原隊に着す。初代中隊長は夙に去り七人目の隊長であった十月二十三日北山余へ移駐す    写真左はR.本部のある安義附近の風景婚礼風景安義城外、北山余から仁首街へとこの流れが・・・・, 19
r13, 昭和17年10月31日 19421031安義城にて、この前日ついに岡田信正君に会い得たのであった十一月十二日帰還命令 十五日北山余出発十八日南京着 廿六日発 北支 満州 朝鮮を経て十二月四日下関上陸十二月七日召集解除, 20
r14, 以上昭和十三年九月三日より十七日十二月七日に及ぶ四年三个月の第一回召集の生活の思出である戦争苛烈 米軍の爆撃に明けくれた二十年の第二回応召は流石に全く一枚の写真もない それからの敗戦と混乱と!記すことさえ惨にして酷。 時勢は移り今は当時の儘の説明は時代遅れとなった がそれはいうまい七册に及ぶこの記録を終えて 歴々たる漢口の思出、十五年後の今も尚目をつむれば漢口のあの町あの景色、掌をさす如く三年の生活により大阪よりも詳しく記憶に残る 春の風景 冬の漢口 思出す武漢の記憶はフィルムの如くめぐるあのときの仲間はどうしているだろうか 親しんだ支那人達は?しかしこれは一個の兵の思出にすぎない 肉親の不安、戰争への呪詛 軍隊に於る兵の心境 そして勝つも敗けるも戦の渦中に於る人間の立場、心情を思うとき軍閥への憤、天皇の無力罵倒を禁じえない.まことに力なきクニタミこそ国家の名と階級権力の鞭の下にギセイになったのである 戰争から何を得たか 敗戦と苦しい生活と丈であり人間は環境の動物であるということの弱い果敢い姿丈である。今このアルバムの頁をしづかにとぢようとするとき、単なる一個の思出を超えそのすべての背景であったあの戦争への批判を以上のようにしつゝ戦争の姿を思出さうとすれば 私の耳にはどこからともなく海行かばの楽の音がわきおこりどよもしてくるように思われる。 国の命の儘に戦場の露と消えた将兵の霊よ安らかなれ そして戦争の合間に兵の心をヒタヒタとひたしたものとはと聞かれるなら、特に好んで幾十回幾百回歌ったあの軍歌 特に昭和十六年五月廿六日荊門のくれなずむ大陸の茜さす山辺の空気を震してきこえてきた暁に祈るの軍歌を今も聞くように思われる 悲壮! 兵はひき千切られて大陸に南方に運ばれたのである。歯をくいしばり汗と埃にまみれて幾十里 自ら兵の辛苦をなめた人だけにわかる気持である 過ぎし日をふりかえりわれとわが身をいとほしみみれば行きつく想いは生きてしあることこそこよなき幸とすべしであり戦場に朽てはてし英霊への同情敬弔であり戦争反対呪詛につきるのみである。, 21
r15, 昭和三十五年のある月にこのアルバムを貼布し終わって今年四〇年幾度びか展げては過ぎし日の思出を見つけて来た。のど元すぎれば熱さ忘れるの譬、決して軍国時代を是としたりするものではないが唯思出におぼれた点もないではない 他方その後の日本社会、国家の変転は唯混乱無秩序の敗戦直後から世界の驚異といわれる復興と戦前を凌駕する生活の裏側に今尚矛盾と混乱と無秩序が政治に経済に全社会生活にはびこり消費の蔭に今尚日蔭のまゝ救われない人々が無数である 戦後二〇年、今日昭和四〇年八月十五日、われらは終戦二〇周年を迎え、反省なき政治と、三次世界大戦の危険をはらむベトナム戦争を国際情勢の中に戦に没した三百八十万の英霊にしづかに黙祷を捧げ白日を迎えた かえりみて日々これ中国語で言うマーマー沒法子の時の流れに対する態度と戦争のギセイとなって、今尚悲惨な生活にある人々のことを忘失している態度-平和を平和と感ぜずこれを軽々に見逃し有難くとも思わざる因であり結果であるこの態度を強く戒まねばならない。個人的な公私生活の渦の中に無反省無批判、思想無き日々と送り迎えるのみの姿はやがてまたなすすべもなく戦の渦中にひきずりこまれる因となろう 終戦二〇周年、マスコミは筆を携えてその足跡を活字にしテレビ、ラヂオもすぎし日を思出さしめようとしている他のすべてを措き、戦争のギセイになった数多いであろう人々のわれらに否われに沈思せよと鉄槌を下だしたかの感ある朝日新聞の報告をこゝにとりあげて戒とするとともに今日二〇周年の敗戦記念日を反省の契機としたいと思う 併せてこの記事の老婆に幸めぐれと祈りたい, 28
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作成日/Date Created
2022/06/23
更新日/Date Modified
2024/11/16