柏原英一(1914~2009)写真帳 第5冊

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柏原英一(1914~2009)写真帳 第5冊
資源識別子/Identifier
75467eb7-968f-3575-b214-3dba7b3736c1
作成者/Creator
柏原英一
出版年
[昭和16年9月–16年12月]
形態的記述
1冊
内容記述/Description
本写真帳は、漢口に駐留していた部隊の報道部員であった柏原英一氏(1914年生~2009年没)が整理し保管していたものです。ご遺族の元に残されていたものを、上嶋茂太氏(共同通信)を通じて東洋文庫現代中国研究資料室が寄贈を受け、撮影・整理して公開しています。
目次
,報道班長 江口少佐   白螺磯にて写す昭和16年9月27日 19410927昭和16年9月15日 19410915奇襲上陸に進む湖上部隊    前線報道班の窓から写電気工兵隊の架設   岳州にて写す早秋の洞庭湖をすゝむ     機動舟艇隊    同上,5
,朝日新聞通信車同盟戸田大八郎無線士と写す岳州にて同盟の車中より,6
,前線報道班傍の石塔をかすめて友軍機が飛ぶ南京報道部  石原兵長昭和16年9月17日 19410917白螺磯にて,7
,満々たる洞庭の水を真下に見下ろす 岳陽楼 君山と相対して水天一髪水際に屹立する三層の甍は見ずに映じて 印象深い昔は聞く 洞庭の水今は上る 岳陽楼呉楚は東南に坼け乾坤は日夜に浮かぶ親朋 一字無く老病 孤舟有り戎馬 関山の北軒に憑れば涕泗流る杜甫の詩に名高いこの楼閣を親しく見得たことは思出の一つであり十月七作戦終了 午後九時 御用船に乗つてふりかえったとき満月がこの楼をシルエツト 浮かせ金波銀波 輝いていた光景は思わず 声をあげて讃美したことであった,8
,大毎梅津記者らと岳陽楼下にて写すわれわれのうしろの石階を下りるとヒタヒタと洞庭の水が堀のようにひき入れられていたことを思出す,9
,「一七、二〇岳陽楼より阿南部隊長以下海軍協力下に出てゆく平野部隊の壮途を見送られた 秋色漸く濃い洞庭湖上一団又一団舟艇は征く 岳陽楼上より成功を祈るふられる旗信号に応えて舟も振る 数十隻の小艇につづいて砲艦駆逐艦が進み征く 写真にとる」(その日の日誌から)昭和16年9月17日 19410917このとき楼前にあったのは  阿南軍司令官(終戦時陸相、割腹)  参謀長 参謀一 憲兵田中准尉 憲兵一と  自分だけであった遙かなる島影は有名な君山。洞庭湖の水 渇れたときはこの島迄歩けるという,10
,巨鵬、今出撃,11
,報道班無線アンテナをひこうとした六層の石塔の下にて手塚オペレータ写す昭和16年9月15日 19410915白螺磯飛行場ピスト内から,12
,報道班の窓から砲艦を写す 君山が見える昭和16年9月15日 19410915整備 始動状況を見守る搭乗員,13
,昭和16年9月26日 19410926この日是松部隊須中軍佐操縦する戦斗機に同乗 永安爆撃に参加十二機編隊 堂々と今湖南の空を征くところ 手前翼の機より写す,14
,出撃前の命令下達陸鷲 湖南の秋空を征く昭和16年9月26日 19410926  白螺磯飛行場の燃えるような暑さに操縦士が毛皮のジャンパーを着込むのを見て審んだが離陸後高度四千の上空の寒さに震え上り、これ迄幾度かスーパーに乗ったときとは比較にならぬスピードと機体の構造のためと覚った,15
,編隊。湖南の空をすゝむところ,16
,戦斗準備。 天蓋は開かれ機銃の旋回点検 五十キロ爆弾が見える出撃を前に待機する兵士たち。1941年9月ごろの撮影とみられる。出撃を前に  ピストに待機する搭乗員,17
,敵陣上空を旋回 川向こうの部落に敵トーチカ,18
,離陸、ピストからは帽振って送る いい気になってこちらも手を振ったのだが  それから三十分程もして急降下 爆撃が始まり終世忘れえぬ急転直下の逆落しのショックに 天蓋は開く、バンドは切れるの一大驚愕を  うけたときは、後から考えて神ならぬ身のとも   漫画式とも知らぬが仏とも と苦笑した旋回。急降下爆撃、掃射 敵トーチカからの対空射撃、急降下・・・・・・必死の撮映,19
,湖南四千の上空を截って飛ぶ寒さを忘れ、急降下の恐怖に脅えてシャッターを切る長沙の街も機上から見えた筈だが、それどころか・・・,20
,逆落し、急上昇 無我夢中の撮影 天蓋は開きバンドは切れたまま。,21
,右に左に乱舞する編隊の各機 禿鷹の精悍・・・・・・が、たゞもう早くすんでくれと祈るばかりの恐怖,22
,又しても我一機、翼を傾けたと思う一瞬吸いこまれるように降下してゆく。あ、その一瞬を!後日この写真は新聞社カメラマンがよく撮れたと驚いたもの,23
,急降下にうける心理的、生理的変調を以ていうのでない。 天蓋が飛び開きバンドが切断しあわや地上四千米の高空から機外へ真逆さまに放り出されようとした死の恐怖を味わった あの日 あのときの心境そのままの顔着陸後是松戦隊長に敵状報告を命ぜられ搭乗員環視の中に行ったところ偵察将校の報告と合致、仲々よろし、も一度搭乗と戦隊長、えらいことになったと思ったが引くに引かれず搭乗員が笑ひかける中敵大軍出現 全機出動となり、中止。着陸後 浅野写真班写す昭和16年9月26日 19410926,24
,昭和16年9月27日 19410927九死に一生を得て白螺磯から岳州へ戻る便船上より 。 満々たる洞庭湖に姿写す岳陽楼を望む,25
,よくも命ありけり・・・・・.と思ひつゞけて,26
,岳州の舟つき場も近づいた。よく帰ってこれた左は前線放送に当時来岳の杉本BKアナウンサ,27
,秋色濃き湖南洞庭湖周辺に行われた昭和十六年第一次長沙作戦は九月二十七日我が勇敢なる攻撃よく敵を圧してその戦果をあげた 写真上は前線報道班の使用した建物下は長沙占領の中支軍発表。私が書いて貼り出した字である上の建物入口の左傍に貼ってあるのがその遠影である昭和16年9月27日 19410927,28
,入せる早渕部隊騎兵斥候 長沙の街を見下ろす昭和16年9月27日 19410927,29
,昭和16年10月8日 19411008手塚通信士のオツサン音に聞いた岳陽楼 洞庭湖の水をあとにして  帰漢する船上よりふりかえる岳州の町の空にあの塔がいつ迄も 屹り立っていた 秋の水をわけて船は進むなんと広くなんと大きい支那か今更のごとく眺め入った大陸の姿友軍機一つ 岳州の方向へ,32
,報道班主催長沙作戦の苦心談 東京茶房にて従軍作家、各社記者と座談会 写真正面は棟田博、山岡荘六、久生十蘭、 摂津茂和らの作家  福日出身の赤木一等兵速記をとる作家棟田博(「分隊長の手記」の作者)報道班へ来る昭和16年10月22日 19411022,33
,この写真こそ火野葦平がその従軍記の中に記す山坡の駅での弟との出逢いの記念撮影である戦火に距てられて何年ぶりかで会合したその手記をよんで玉井伍長から恐らくはたつた二枚丈のこの写真の一枚をもらったのがこれ。宜昌で貰ったと記憶する 伍長はその後十榴部隊に属し香港に遠征した。我が爆撃に包まれた重慶 揚子江の流れ ここでは岩を噛む,34
,総前街配布所横の露路にて昭和16年6月 19410600,35
,巡回遠東劇団 宣撫班,36
,自転車利用の歩兵 南方の作戦に銀輪部隊として謳われたが当時ひそかに試験中であったのか,37
,南京か上海へ変つて行ったオペレータと思う。   漢口碼頭の時計台を思出して裏に懐旧の文を記している。        船舶司令部がここにおかれていた宜昌俘虜収容所,38
,総軍司令部軍楽隊武漢前線慰問、宜昌より帰つて漢口放送局より放送この夕、前線向放送を終っていた私はこの楽長のうしろにいた。後で蜀珍で会食軍楽隊、軍司令部へ昭和16年10月23日 19411023,39
,昭和16年10月28日 19411028在漢中よく訪ねてきた石井部隊(野戦衛生材料廠)森下伍長 沙洋鎮へ移る箱石重一無線。ヘンな奴だった昭和16年11月2日 19411102軍司令部各部武昌へ遠足神谷一等兵と写す,40
,昭和十六年十一月二十九日奥地爆撃作戦報道のため南昌へ出張の命令を受け飛行機にて真銅少尉、手塚無線士と三名で過ぐる十四年の秋 紅葉散るこの廬山のふもとを背嚢かついで数十里行軍した思出のところ 今翼下に見下しつつ南昌へ蔣介石の軍官学校と図書館を望む図書館廬山々系の一、五老峰の姿簾をかかげて香爐峰をみるの香爐峰も遠くない,41
,南昌市湖浜公園を見下しつつ着陸機上から見下ろしたときのこの景色は    今も目に残る昭和16年11月29日 19411129これより手前右手の道は飛行場へつゞくタオル売る店,42
,その橋は四度び渡った十四年 南昌へ移駐していったとき十四年 報道部へ転属のとき十七年 南昌へ出張したとき十七年 原隊へ戻るとき南昌攻略時敵の破壊したのを我工兵が架設したもの 延々数百米 他端が見えぬ位長いものである 対岸が南昌駅側橋の中途に歩哨が立っていた南昌の街燃料を漁る難民も見える贛江に架る我軍の手になる木橋前方に慰安所があった,43
,ここも懐しい  南昌のスナップ,44
,南昌はづれの塔 このむこう遠くない処に事変当初自爆した南郷少佐の戦死の地がある,45
,昭和十六年十二月五日南昌湖浜公園にて大贛報主催野球大会にて同盟支局の面々金島  南京支局鶴野 氏家 原隊34D報道班戸田 上海松本 小野 九江支局浅倉   東京本社;,46
,南昌同盟通信支局前にいもの壺焼 十二月のひざしをあびて手塚オペと買った一年後の十月十四日原隊復帰のときとも  同じ場所で同じ格好で売っていた と日誌に   記してある。この小孩もどうしただらうか。ひそやかにつましく日本軍占領の南昌の街に  ものひざいでいたこれらの支那人民日本敗れて十年、中共の支配する支那で  かれらはどうしているであらうかシンコ細工屋,47
,南昌同盟通信支局前にいもの壺焼 十二月のひざしをあびて手塚オペと買った 一年後の十月十四日原隊復帰のときとも  同じ場所で同じ格好で売っていた と日誌に   記してある。この小孩もどうしただらうかひそやかにつましく日本軍占領の南昌の街に  ものひざいでいたこれらの支那人民日本敗れて十年、中共の支配する支那で  かれらはどうしているであらうかシンコ細工屋,49
,昭和16年12月 19401200原隊三十四師団報道班松本上ト兵(神戸生田区)漢口へもよく来、こちらが南昌出張のときも世話してくれた。昭和十八年、共に凱旋して後の翌年神戸へ訪ねたまゝである,50
,昭和16年12月5日 19401205この時は同盟通信の服を着て出張したのであった。南昌大橋畔の記念塔の下で手塚のオツサンと奥地爆撃作戦雨天のため中止となり16­12­3ついに南昌同盟支局に泊って十日写,51
,昭和16年12月7日 19401207待機命令を受け同盟の二階で毎日ブラブラ。冬のひざしの南昌の街を写す十六年十二月、今年も暮れると爆撃作戦再開を待つのみの日がすぎた図らずもこの頃はるか北の方千島列島エトロフ島ヒトカツプ湾をあとに南雲中将率ヰる真珠湾奇襲部隊は逆巻く太平洋の怒濤を蹴っていたのであった。,52
,十六年十二月七日中支南昌の夜はしんしんと更けた すぐる十四年十二月報道部へ転属の命令をうけてこの町を通過したとき単独宿舎の窓にみて泌々と眺めたあの星はこの夜もまたゝいていたことであらう時も同じ十二月骨も凍る寒気の中に南昌は深い眠りについた 二時、三時、四時・・・・遠く太平洋の彼方に乾坤一擲帝国の運命をかけたサイはふられていた 新高山登レ忘れもせじあの日あの朝十六年十二月八日南昌同盟支局の二階に朝のねむりを軍艦マーチに起されたあのときの思出大本営発表十二月八日帝国陸海軍は西南太平洋に於て米英両国と戦斗状態に入れり,53
,<その日の朝の表情>昭和16年12月8日 19401208本朝未明帝国陸海軍は西南太平洋に於て米英両国と戦斗状態に入れりその日の朝同盟支局前に貼出されたニュースに見入る日支両国民上海ガス会社を接収する上海陸戦隊(十二月八日),54
,軍艦旗、へんぽんと翻るその日の朝上海大路を接収にすゝむ我戦車部隊陸戦隊の装甲自動車新たな闘い始まる!,55
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