柏原英一(1914~2009)写真帳 第6冊

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タイトル
柏原英一(1914~2009)写真帳 第6冊
資源識別子/Identifier
ee12f092-949b-81f0-42d4-2e07ea3030d9
作成者/Creator
柏原英一
出版年
[昭和17年1月–17年5月]
形態的記述
1冊
内容記述/Description
本写真帳は、漢口に駐留していた部隊の報道部員であった柏原英一氏(1914年生~2009年没)が整理し保管していたものです。ご遺族の元に残されていたものを、上嶋茂太氏(共同通信)を通じて東洋文庫現代中国研究資料室が寄贈を受け、撮影・整理して公開しています。
目次
,南京路大折公司前に打倒英美の伝単撒布陸戦隊 堂々の市中行進上海グランドシアタ(米系有力映画館)皇軍の歴史的ニュースを上映するに至った,5
,昭和16年12月24日 19411224スーパ6811号に独り搭乗。襄東地区に大東亜戦戦果の伝単を撒布。赤木上等兵(白螺磯より)  松尾・柏原上等兵(襄京西方面)松尾機と雁行しつつ孝感より隨県上空へ六時間飛翔し安陸荊門に不時着。機上より松尾機を写す,6
,昭和17年2月13日 19410213大東亜戦による英米財産接収第三特別区(旧英租界)CCPの建物を報道班の庁舎としこの日移転。三階の豪華な部屋を居室とした。漢口碼頭碇泊中の英船接収,7
,昭和16年12月28日 19411228香港陥落祝賀の列,9
,江口少佐送別記念中井(傭)梅津(傭)西谷(傭)(傭)内藤(上)松邑(上)赤木(上)岡花(上)(傭)松尾(上)田渕(上)森井(上)吉江(傭)佐々木(上)岡田(特伍)松木(特伍)足立(特伍)井上(特伍)(傭)柏原(兵)(傭)篠田(軍)箱石(無)伊藤松浦(少)江口少佐真銅(少)今井(佐長)手塚(無)金井(訳)社前にて昭和17年1月1日 19420101漢口神社にて松尾上等兵・松邑上等兵,11
,昭和17年1月1日 19420101 漢口神社にて松尾上等兵・松邑上等兵社前にて,13
,中山路に掲げられた大東亜戦戦果,14
,中山路、兵站司令部への曲角に掲示の支那式稚拙な絵,16
,在漢 印度人も,17
,中山路 六角堂下にて,18
,支那人も印度人も日本人も,19
,獅子の踊り龍の舞ひ,22
,報道班屋上より昭和17年3月12日 19420312 足立と、急性肺炎とも知らず昭和17年3月15日 19420315急性肺炎で臥床、居室で写す3月1日付兵長進級,27
,昭和17年3月15日 19420315 東京茶房で送別会松尾上等兵は三月廿四日離漢したが、こちらの離漢はこのあと.陽作戦出張、南昌出張、入院を経て十月十日に至った昭和17年3月19日 19420319浅野、岡花上等兵と写す,28
,昭和16年7月20日より前線将兵向国際情勢等を漢口放送局から放送した何度か参謀副長等から賞詞を受く。漢口放送局にて(植木上等兵写す)昭和17年3月17日 19420317足立、井上と,29
,昭和17年4月 19420400中支に春四度び日本租界にて,30
,戦車部隊漢口市中行進,31
,5月5日軍司令部戦闘指揮所前線へトラックをつらねてこちら向は西谷傭人 その向うあちら向 右は篠田軍曹悪路に悩む行軍間の一とき 篠田軍曹 西谷傭人 房安無線士この撮影直前 乗車トラックから降りようとしてトラック屋根の凸出部で左手掌を負傷,33
,昭和17年5月5日 19420505悪路に悩むトラックの車輪には辷り止めのチェインをまいて,34
,十四、三〇昹旺鎮へ午前十時新●の渡し 工兵隊の鉄舟で渡河喧騒もないしづかな日差しであったことを覚えている^,35
,敵襲に備えつつ衛兵小隊もエンピ握って,36
,軍司令部 九台の車も立往生仙桃鎮の入日をうけて渡河,37
,昭和17年5月6日 19420506施家港にて 十榴の砲列巨弾 殷々と轟けば左手遠く敵陣黒煙,39
,轟然一発!十糎榴弾砲吼中る瞬間!忽ち敵塹塁に真紅火柱と濛々たる黒煙、土煙!,40
,軍司令官阿南部隊長 敵状報告を受けるところ,41
,飛行機による通信筒吊上げ(原隊大隊本部ではこの対空班であった),42
,下野中将、 .陽作戦は下野部隊が主力原隊の第三大隊はその指揮下に入ったものこの敬礼整列の指揮はたしか柏原兵長の号令,43
,逆茂木の林、クリーク濠、トーチカ重砲で先づ叩くより手のつけようのない敵陣ズラリと砲列を布いた重砲陣から一発又一発薄曇りの日であった。殷々と砲はうなり襄西の空にこだまして敵陣には黒煙と白煙が次々とあがっていった,44
,この作戦には戦車部隊と機械化重砲部隊が動員されたが用いるによしもない泥濘湿地帯であった炎々ともえ上る敵塁。 反撃の敵弾も沈黙した。 さあ突撃!,45
,ああ感激の万歳,46
,まことに物凄い保塁[堡塁]であった ゾッとさせられた陸家の敵塁大毎加藤記者 松浦少尉 黒津中尉と気味わるい。陥落直後の保塁[堡塁]の入口で撃砲にくづれた土に背丈みせて埋もれた支那兵がまだうごめいていたことも思出す,47
,とにかく、念入りに作られた保塁[堡塁]ではあった。土と石と木と泥をコネまわしてではあるが地下にあり階段ありトーチカあり迷路ありだが重砲の存在を考えたかどうかとにかく気味のわるい構造であった。まだ埋もれた侭の地雷に工兵隊が目印に白線をつけた棒を附近につきさした丈の危険地点が点々とつらなっている保塁[堡塁]の土壇上を縫うようにしてとび歩きつつ、まだピクピクと背をみせて土に埋もれてうごめく敵兵をふみつけてとびこんでいったのであった,48
,昭和17年5月7日 19420507曹家の保塁[堡塁]陥落直後、戦闘部隊は原隊の第十二中隊中央に岡田信正君を尋ねる余の姿,49
,小山の如き武家場の保塁[堡塁]高サ約十米 幅六米 長サ約三〇米 箱型堡塁銃眼は二重、三重ニアリ周囲ニ深サ三米 幅四〜五米ノ水濠 ソノ外周ニ鹿砦ヲ巡ラシ 四囲にトーチカ七个所ヲ有ス堡塁ノ中ハ兵室 弾薬庫アリ優ニ一个中隊ヲ収容シウル,50
,戦いすんで今はただ一望の曠野に風が吹きわたる,51
,戦いすんで今はただ一望の曠野に風が吹きわたる,53
,よくもこんな保塁[堡塁]を作ってやがったと呆れる許り昭和17年5月6日 19420506白廟で林原西谷 同盟長尾記者篠田大陸平山大毎加藤 黒津松浦房安無線,55
,戦車部隊が報道班の横に夜営していたしづかな晩春であった  白廟にて昭和17年5月6日 19420506,56
,白廟にて昭和17年5月7日 19420507白廟へ戻る 夕炊の最中  篠田軍曹と、トリ肉の汁で飲んだチューのあの晩トリをシメるのをいやがった軍曹のあの時の姿を思出す  気のいい人物だった,57
,昭和17年5月8日 19420508仙桃鎮で酔ってしゃべってパイナップルこの写真誰が撮ったのか漢口へ戻ってもわからず第五十八師団本部にて 西谷傭人と昭和17年5月9日 19420509仙桃鎮より漢水を下る。病院船に便乗暑かったのなんの。十二時間カンカン照りうしろ向は篠田軍曹船上の同盟記者ら ヂリヂリとてりつけられ乍ら,58
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