柏原英一(1914~2009)写真帳 第4冊
タイトル |
柏原英一(1914~2009)写真帳 第4冊
|
資源識別子/Identifier |
f4fa6f0f-88e7-e143-d758-38b599f7550e
|
作成者/Creator |
柏原英一
|
出版年 |
[昭和16年3月–16年9月]
|
形態的記述 |
1冊
|
内容記述/Description |
本写真帳は、漢口に駐留していた部隊の報道部員であった柏原英一氏(1914年生~2009年没)が整理し保管していたものです。ご遺族の元に残されていたものを、上嶋茂太氏(共同通信)を通じて東洋文庫現代中国研究資料室が寄贈を受け、撮影・整理して公開しています。
|
目次 |
r1, 報道部の露地にて昭和16年3月 19410300村田無線班員 好人であった漢口に花のおとづれ 日本租界にて航空隊岡田一等兵 南方へ転じた筈どうしただらうか, 5
r2, 班長杉原騎兵少佐 北満に転出昭和16年3月17日 19410317, 6 r3, 昭和16年3月8日 19410308杉原少佐北満転出送別李大佐赤木(一)中井(雇)山本(二)田淵(一)梅田(伍)柏原(上)前田(傭)寺中(上)柴山(一)田村通訳松田通信士江戸通訳井上(傭)小早川(伍)井手之手(傭)斉藤(上)村田通信士松尾(上)伊藤(嘱)前田中尉杉原少佐松浦少尉金井通訳宮里通訳欠植木畝上等兵欠航空隊岡田一等兵ら, 7 r4, 昭和16年3月17日 19410317班長杉原騎兵少佐 北満に転出, 8 r5, 航空隊岡田一等兵ら, 9 r6, 南京還都一周年記念式典 華々しく武漢地区にて挙行昭和16年3月30日 19410330この頃編成された武漢軍官学校(中山路)の行進漢口市政府に新政府の国旗が・・・・中山路をすすむ祝賀の列, 10 r7, 軍官学校武装行進新市場前のデコレーション市内各小中学生の作品展示会, 11 r8, 旧海軍病院横手広場からあげた アドバルーンを望む記念式典にわきかえる大路の行列とは逆方向へ新作戦に出動する我部隊が征く, 12 r9, 土も草木も火ともゆる・・・・進む日の丸鉄兜聯隊砲 吼中一瞬, 13 r10, 爆弾投下!, 14 r11, どこの都か街か, 15 r12, 昭和16年4月3日 19410403漢口の日本租界を御輿が練って(今は昔の物語) 故国の風望を大陸で, 16 r13, 昭和16年4月5日 19410405中山公園にて慰霊祭執行(松尾●●上等兵参列), 17 r14, 国を出てから幾月ぞともに進んだ山や河愛馬の日 在漢騎兵部隊の日本租界行進昭和16年4月7日 19410407漢口国民学校生徒とニンヂン進上, 18 r15, 昭和16年4月 19410400園部中将に代り阿南中将着任(終戦時の陸相)中山公園の春景色, 19 r16, 昭和16年4月27日 19410427昭和16年4月27日 19410427村田通信士・赤木一等兵と一年ぶりの武昌へ以下三枚、生れて初めての我手による撮影小孩三人 武昌の町はづれにて武漢大学のうしろにて, 20 r17, 丹青いろいろの甍に龍宮のような大学の建物をふりかえる裏道で手前の植込は●●の公園 そのこちらが大きな湖, 21 r18, 春逝く漢口の町で夏近くして ヤセにけり今井曹長 交代昭和16年4月20日 19410420夏雲湧いて ソロソロ汗ばむ頃の漢口, 22 r19, 「東亜保衛の歌」発表演奏会 世界大戯院にて 南京総軍軍楽隊と漢口軍官学校軍楽隊の合同演奏陳翠賛の謡, 23 r20, 武漢報工人蔡忠飛蕭後寛馬傲英沈賈得張映安陳子郷三年間 毎日の総前衛編輯の文撰大組に従事した工人。彼らはよき協力者であった。あれから十八年 どうしているだらうか。一年ぶりに宜昌出張。江口少佐・松浦少尉と宣伝の浸透と総前衛配布状況視察漢口ー応山ー荊門へ空路スーパー機にて正に黄塵万丈の軍公路昭和16年5月26日 19410526, 24 r21, 昭和16年5月27日 19410527 荊門、広島師団本部裏手の山この辺り かの三国志の旧蹟 左写真下の泉水にカニが清冽の水に遊んでいたことを覚えているこの夕、茜さす山をぬって軍歌演習の暁に祈る歌声がタルやの中に聞えたことは未だ尚今も沁々と思出される, 25 r22, 一年ぶりに宜昌出張。江口少佐・松浦少尉と 宣伝の浸透と総前衛配布状況視察 漢口ー応山ー荊門へ空路スーパー機にて正に黄塵万丈の軍公路昭和16年5月26日 19410526, 26 r23, 荊門、広島師団本部裏手の山 この辺り かの三国志の旧蹟 左写真下の泉水にカニが清冽の水に遊んでいたことを覚えているこの夕、茜さす山をぬって軍歌演習の暁に祈る 歌声がタルやの中に聞えたことは未だ尚今も沁々と思出される昭和16年5月27日 19410527, 27 r24, 昭和16年5月27日 19410527, 28 r25, 昭和16年5月27日 19410527敵軍、しかも中支軍前面の敵集団軍長張自中﹇張自忠﹈の故里とか荊門にはその讃碑があった昭和16年5月27日 19410527 この日北方十キロ石橋市にて風船による伝単撒布を実験 成功裏に終わる 写真火縄の先端から燃え上ってゆくところ, 29 r26, 南京総軍猪野写真班 偶々東中、同行 以下は同氏より受く当陽関羽廟 是真漢傑の額があった昭和16年5月28日 19410528, 30 r27, 慈化市より戻った日の午后、当陽興亜中央会本部にて昭和16年5月29日 19410529これは慈化市の方であったと記憶する 暑い日であった, 31 r28, 昭和16年5月29日 19410529慈化市へ 鵜飼のある町ときいた爆竹の音に初めびっくり 判ってバカに感激した, 32 r29, 当陽 関羽廟にて当陽より宜昌へ向ふトラック車上より 鴉雀嶺を経て宜昌着昭和16年5月30日 19410530, 34 r30, 当陽にて我部隊監視下に軍公路工事の難民宜昌にて宜昌対岸を望む, 35 r31, 宜昌前面の山は戦前森下仁丹舗が方二間の大きさで、立木を伐って仁丹と広告し、ために仁丹山といわれてきた十五年夏宜昌作戦に当ってこの山に敵陣の鉄砲陣地があったが未明の奇襲によって猛攻ついに宜昌を完全占領した今和平云々の字が代りにつくられていた 昨年八月第一回の宜昌出張時よりここに一年再び見る宜昌の町は大分治安も恢復しているようであった昭和16年5月30日 19410530, 36 r32, 四川、貴州の山々もはるか 茜さす大陸にあってはるばると来つるもの哉と感深い玉 井伍長(火野葦平の弟、東大政治卒)と同内山部隊の増子か師岡揚子江は上海ー武漢、武漢ー宜昌、宜昌ー重慶の三区分で傾斜、水流が異る。武漢迄は一万トン級 宜昌迄は五千トン級 上流は千トン以下でないとゆけないといわれる。宜昌よりは水流激しく三峡の険は水声両岸にこだまするという。しかも水一たび渇れるときは水量減じて昨夜の碇泊は今朝はるか頭上の絶壁となるとさえいわれる。写真左は船員も去り再び動く日をまつ宜昌はづれの舟、「日本へ帰る船」とたわむれに書かれたのをこの目でみて、兵の心を今更にして新たにした。偶然この船はある雑誌に大写しにされている。(第七冊末尾貼布), 37 r33, 宜昌清●渓の最前線陣地より望む。「ああ長江の流れ漸く激流に入るところ、古来詩にうたわれ、 歴世の読書子をして思ひをはるかに走らしめ、史家また中原逐鹿の 英傑梟雄の戦跡として書きとめし三峡の..今目前にあり。 はるかに指呼す四川の雲煙巍々たる山畳よ」この日の日記は こう記している。 峨眉山月半輪秋 影入平羌江水流 夜發清溪向三峽 思君不見下渝洲 (李白) 昭和16年6月1日 19410601, 38 r34, 恐らくこの写真は何人もそう見られないもの、名にし負う青敝赤敝チンパンホンパンの入会の儀式。我日本任侠の世界でいう仁義を切るというのに●るという。絶対この世界以外の者には見せぬ。もし見れば死を以て報ゆるとか。特に猪野写真班員が請うて写したもの。, 39 r35, 昭和16年6月 19410600 宜昌より帰漢。武漢はすっかり夏となった。昭和16年6月4日 19410604, 40 r36, ポスターを貼って 植木上等兵にとらす佐々木一等兵松浦少尉, 41 r37, 総前衛編輯室屋上にて, 42 r38, 夏の中山公園にて, 43 r39, ベビーゴルフ場にて, 45 r40, 江北に秋しのびよる頃ひそかに長江作戦は動き始めた昭和16年9月 19410900続々と部隊は何処かへ出発してゆく。漢口警備部隊も報道部屋上より写す航空隊も, 47 r41, 戦車隊も基地も多忙, 48 r42, 制圧爆撃下達, 49 r43, 雲湧きあがる大陸の土を噛んで軽装甲車はすすむ, 50 r44, 今日もまた漢口駐屯の部隊が出てゆく。 皆元気で帰ってこい長沙作戦前線報道部へ出張昭和16年9月13日 19410913, 51 r45, 粤漢線にて武昌より岳州へ 咸寧.蒲圻.賀勝橋.官埠橋通道途中、国防婦人会の茶の接待昭和16年9月14日 19410914爆音、耳を聾して空を圧す, 52 r46, 昭和16年9月14日 19410914官埠橋の辺りで 停車の間に, 53 r47, 昭和16年9月15日 19410915湖南省の九月の朝、爽々しい秋の気は洞庭の湖に一面に満ちていたが、忙しい作戦準備の空気は岳州の町に緊張して流れていた。報道班より見た景色。 右手石塀は内庭の立派な潜り入口が絵に見た通りにつくられている屋敷であったのを思出す。第一日目、妙な船だと思ったが、小型タンカーであった。, 54 r48, 洞庭湖畔に屹立する石塔、 幾年を経たか。それに木が生えている。既に火蓋は切られていた, 55 r49, クリークを渡る 歩兵爆撃目標近し、 進入!, 56 r50, 同盟 戸田無線士と数个月後南昌にて再会するしづかな洞庭湖湖南の秋漸く深く, 58 |
ページ送り方向 |
right-to-left
|
権利管理/Rights |
二次利用(出版物やウェブサイトへの掲載、放映等)の際には、下記リンクからお問い合わせ下さい
http://toyo-bunko.or.jp/mail/
|
所有者/owner |
東洋文庫
|
アイテムセット
作成日/Date Created
2022/06/23
更新日/Date Modified
2024/11/16